自分もしくは他人が「依存症」で苦しんでいるときにできること【沼田和也】
『牧師、閉鎖病棟に入る。』著者・小さな教会の牧師の知恵 第15回
一方で、別の人はこう考えるかもしれない。
「この人のしていることをこのまま放っておけば、身体を壊して死んでしまうかもしれない。本人は嫌がるかもしれないけれど、やっぱりなんとかして、それをやめてもらいたい」
依存症から話は変わるが、こんなこともあった。性産業は男性による暴力と搾取であり、性産業に従事している女性はその犠牲者であると、わたしは考えていた。ところが、じっさいに性サービスの仕事に就いている女性と会って話をしたとき、その人はこんなことをわたしに言ったのである。
「よけいなお世話だ。わたしはプライドをもってこの仕事をしている。わたしのことを『可哀そうだ』と思うかどうかは、わたしのサービスを受けてからにしてもらいたいね」
他人から見た「哀れな仕事をさせられている犠牲者」というイメージと、本人がその仕事に対して抱いているプライド。性産業に問題があるという考え方が一方的に間違っているわけではないだろう。貧困や暴力のなかで自らの性を売り渡さざるを得なかった女性たちもおおぜいいるはずである。そういう人々を被害者ととらえ、その救済を考える上で、例えば売春行為の問題点を懸命に考えることが愚かであるとは思えない。しかしまた一方で、上記の女性のように、男性に対して心身双方の喜びを与えるサービスに誇りをもって従事している、そんな人も厳然として存在しているのである。
聖書にある「ローマの信徒への手紙」のなかで、パウロは語る。
わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。(7章15節 新共同訳)
パウロは「わたしは」自分のしていることが分からないと語る。けれども、どうであろうか。わたしが分からないのは、わたしの行為だけであろうか。わたしの知っているあの人は、自身が望むことをしているのだろうか。それとも、ほんとうはやりたくない、むしろ憎んでさえいることを、それでもやらずにはおれない状況にあるのか。あるいは、わたしは「あの人はやりたくないことを、それでもやめられない」と思い込んでいるが、じつは当のあの人自身は、心から喜んでやりたいことをやっているのではないか。わたしは自分のやっていることがやりたいことなのかだけではなく、他人のしていることもまた、他人がほんとうにそれを望んでいるのか、分からないのではないだろうか。
この仕事をしていて思うことは、目の前の人に対して「それはやめておいたほうがいいよ」という一言を発するまでに、気の遠くなるような信頼関係の構築が必要であるということである。しかも熟慮の末とはいえ「それはやめておいたほうがいいよ」と言ってしまったばかりに、その信頼関係が一瞬にして崩壊してしまい、その人との関係もそれっきりになってしまうことさえあるのだ。
また、依存症については安易に「それはやめておいたほうがいいよ」などと言うべきではないし、言ってはならない。依存症を専門としている精神科医である松本俊彦氏の著作をはじめ、さまざまな情報源から、わたしたちは依存や嗜癖についての一般的な知識を手に入れることができる。そういう意味では、たとえばリストカットをする人に対して、「自分の身体を大切にしなさい」と助言をすることは意味をなさないどころか有害でさえあることも、今や多くの人が知っている。
けれども、あなたの親しい人が、生活に支障がでるほどの依存に苦しめられているとしたら。あなたはそれでも「人それぞれだから。その人はその行為をとおして安心を得ているのだから」と割り切っていられるだろうか。あるいはまた、目の前の人が危険をともなう仕事を「誇りをもって」やっているときに、いかなる場合でも静観していることができるだろうか。その人になにかを言うべきか言わざるべきか、わたしたちは信頼関係という基盤のなかであってさえ、その基盤を壊しかねない言葉や行為をもって相手に介入しなければならないこともある。誰かとかかわりをもって生きていく以上、「人それぞれ」ではすまないこともあるのだ。少なくとも、わたしはそう考えている。
ツイッターで論争になってしまう話題の一つに、安楽死や尊厳死を認めるかどうかというものがある。日本で法的に認められる様子は今のところないのだが、実際の施行云々よりも個人の信念や価値観として、そういう手段を認めるか否かということで意見が対立するのである。安楽死や尊厳死については専門的な、膨大な議論があるだろう。わたしはそれらのほんの一部しか知らないし、ここでもそうしたことについて議論するつもりはない。わたしが考えているのは、以下のことだけである。
すなわち、「どうやったら『死にたい』と強く願っているその人の思いを深く受け止めつつ、しかもその人と共に生きていけるのか」ということである。わたしは「死にたい」と強く願う人の思いをできるだけ受けとめ、聴き取りたい。でもそれは、その人の言葉に従って死ぬためのお手伝いをすることではない。その人を尊重すること、その人に傾聴すること。それは、その人の言葉上の主張に従うことであるとは限らないのである。
わたしの立場は、死にたいと思っている人に生きることを願う────願うといえば美しく響くが、ようは強いている────以上、他人の価値観に対する言い訳のできない介入である。わたしがこの立場に立つことにエビデンスはない。閉鎖病棟に入ったことも含めて、わたし自身が今まで何度も、自分以外の誰かからの「よけいなお世話」によって救われてきたこと。強いて言うならばその経験則が、わたしをしてそう言わせずにはおかないだけである。
文:沼田和也
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